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回顧録002

そういえば幼稚園から小学生のころ僕は報告魔だった。

誰かが悪いことをしているとそれを教師や親に知らせていた。

「だれだれ君が何々していました」とその当時でいえば自分より力のある人間に、

告げ口することが習慣になっていた。

親には今日こんなことがあった、あの子があんなことをしていたと報告する。

先生に対しては自分が他の生徒から嫌なことをされて、先生のほうからその生徒に

やめるよう指導することをお願いしていた。

小学低学年の時確かいじめにあっていたと思う。

上級生何人かにものをとられたり、ちゃかされたりした。

確か集団登校をしておりそのなかの何人かが僕にいたずらしていた。

毎日何かをとられていた。帽子だったり教科書だったり。

多分嫌な思いをしたんだと思う。

だから親にどうにかしてほしいと頼んだのだ。

先生にもお願いした。

まず親が登校中にいじめにあっている現場を押さえてもらい、

そのあと学校へ、担任の教師に報告していた。

その結果、集団登校中のいじめはなくなった。

いやがらせが無くなったのは良かったんだろう。

でも何か釈然としない。

いじめを受けた人間は、された嫌なことを忘れない。

何年たっても覚えているという。

もしくは思い出したくない、消してしまいたい過去。

だが僕はいじめられていた当時の記憶なんてかなりあいまいだし、

ただそんなことがあったなと思い出せるくらいである。

嫌な思い出に含まれるのだろうか。

人間は苦しい記憶のほうが楽しかった時の思い出よりも

鮮明に覚えているものなのか。

僕は報告魔である。

なぜ親に教師に、自分よりも力のある人間に知らせるのか。

それは僕自身が嫌なことをされて困っている、それもある。

でも嫌なことをしてくる相手に対してやめるように訴えただろうか。

確か上記の集団登校のころは、とられたものを返せと相手に言っていたと思う。

しかし親や先生に言うことで解決する、何とかしてくれるとわかってしまった。

目上の人間が動いてくれると知ってしまった。

だから僕は誰かから嫌なことをされたらすぐに報告するようになった。

本当にそれは嫌なこと、不愉快な思いだったのか。

言えばいい、助けを求めればいい、きっと親が先生が解決してくれると。

それが当たり前のようになっていた。

今思うとそれでよかったのか?と首をかしげる

僕は誰かと本音で話したことがあったか。

ただいやがらせがあると先生や親に代弁してもらっていただけ。

そんな子供だったと思う。